糸ちゃんのくるりんまつげ

糸ちゃんのまつげ

私の娘、糸ちゃんは美しいカーリーヘアーの持ち主だ。

生後2週間で初めて出会い、いっしょに暮らし始めて半年ほどが経って、ほわほわと産毛のようだった髪が伸びてきたとき、驚いた。

毛先の見事なカール。

濡れると特にくるんくるんで、お風呂上りなどは「外国の赤ちゃんみたい」と2歳になった今でも思う。

前髪はなぜかストレートで、伸びるたびにもう5回は切っただろうか。
横から後ろの髪は一度もカットしたことがなく、肩につく長さをキープしている。

実際にはくしでとかすと肩甲骨の真ん中あたりまでくる長さだが、カールのために伸びているのに伸びているように感じない。

おひさまの光を浴びたときの、髪のウェーブの美しさといったら。
公園で遊んでいるときや歩く様子を後ろから見守っているときに気が付くと、魅入っている。

私は糸ちゃんのこの特徴的な髪質をとても気に入っている。
幼少期だけの特典なのかもと考えると、どうかこのままでいてほしいと思うくらいだ。

 

心から気に入っているのは確かだが、一方で複雑な思いも持ち合わせている。

私の幼少期のアルバムには眉の上でまっすぐに切りそろえられた、おかっぱ頭の写真が並ぶ。

今でこそ年齢とともに顔周りの髪を中心にくせが出てきたが、当時はくせのないさらさらの完全な直毛だった。

親子でありながら、全く違う性質をもつことに、ほんのわずかに心がちくりと痛みのようなものを感じてしまうことがある。

 

糸ちゃんが泣く。

年齢のわりに長いまつげがぬれ、くるりん、持ち上がる。

泣き声の切迫感に加えて、くるりんが切なさを胸に流し込む。

 

血のつながった親子であっても髪質が全く違うケースが多くあるだろう。
どちらか一方の髪質を受け継いでいたり、子どものころはくせ毛であった親が今はストレートに変わっていたり、それぞれだろう。
血のつながりがあれば、気にも留めないことなのかもしれない。

街で、保育園で一目で親子だとわかるような、よく似た容姿を見かけると、つい目で追ってしまう。
羨望とは違うと思う。
遺伝子という抗いようのない強い力を発揮するものに対する畏怖なのか、敬服なのか。

 

目の前にいる子どもを、この腕に抱きしめている子どもを養子だと常に意識しているわけではない。
パソコンでいうバックグラウンド起動のように、血のつながらないことは頭の片隅で起動し続けている。

「糸ちゃんのまつげ」は養子であることを私に知覚させる、鍵なのだ。 

ブログタイトルは迷わず、「糸ちゃんのまつげ」にした。直感だった。

 

※記事の画像は見たとき、「おっ」と声が出たくらい、髪とまつげの雰囲気が似ていて選んだもの。

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